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アプリの断捨離をした。

 

 iPhoneはメインの6sとサブの6の二機持っているが、先日両機とも使わないアプリを整理した。

 サブの6に入れてたdiscordやGlympseは、ingressのグループで動く作戦時に使ったものだけど、しばらく使うことはないだろう。

  あまり用がなくなったのはSlackも同じだけど、これはちょっと様子見で残しておこう。

 

 リリースされた時に早速取り入れた人がいてしばらくは繁盛していたGoogle SPACESも今はほとんど見ることがなくなった。かなしいなあGoogleさんよ。あれだけ秀才が揃っていながらSNSだけはどうにもならないというのは不思議である。

 とはいえGoogle+はそれなりに使うので外せない。

 サブ機で削除したのはdiscord Glympse Google SPACES の三つ。

 

 メイン機。迷った末、FacebookFacebook Messengerを削除。

 思えばぜんぜん使ってなかったもんね。一応アプリの代わりにブラウザ版のブックマークをホームに置くようにして数日たつけど全く不便ない。

 必要な通知はメールで来るようにしてるから人の誕生日のお知らせなどは届くけど、こちらがお祝いしても私のはスルーだから最近はこっちもいちいちログインせずスルー。

 私は皆が思うよりずっとケチ臭い女なのだ。

 

 mixiアプリもほとんど使ってないけど、古い友人がつながっていて愛着があるのでこれは残す。

 あとAllo。使い勝手を試すために無理やりインストールさせた夫以外使用者なし。見事に誰もいない。

 いつまで続くかわからないハングアウトにかわってingress関係で使えたら便利なのに、友だち追加が電話番号からしかできないという、すっとこどっこいな仕様になっている。それじゃ何のためにGoogleアカウントを連携させているんだいベイベー。

 

 今んとこ、これといった使い道がないのに削除しなかったのは、単なる気分だ。

 おそらくAlloのGoogle Assistantがご丁寧にも「あけましておめでとうございます」と年始の挨拶を送ってきたから、情が移ったっぽい。

 このbot、ちゃんと人間はだしの挨拶のやり取りができるのがなかなか面白いので、暇つぶしにお勧めする次第。

 

 

メメントモリ

 

 灰白色の背骨は余熱を放ちながら、小さな山脈のように横たわっていた。

 

 真ん中の台に置かれた骨箱は湯呑のように小さい。

 故人は頑健なひとだった。まず目に入ったのは背骨だが、腕の骨も足の骨ものびやかに目の前にある。

 疲れで頭がすこし麻痺している。ちゃんとおさまるのかな、足から順番に入れるんだっけ、と大昔に爺婆の骨上げに立ち会った時の記憶を呼び出してみる。

 

 斎場の係員さんはよくとおる声で挨拶をされると、焼きあがった骨の足の部分を指しながら解剖の授業のように説明をし始めた。そして部位の説明をし終わるや否や、骨壺に入れるため小さくします、と言いながら力をこめて骨をガッガッと砕き、人数分の小さな破片にして私たちに「どうぞ」とサジェストした。

 

 これが左の骨盤です。ガッガッ

 こちらが上腕、そして手と指の骨です。ガッガッガッ

 喉仏のターンでは詳細な説明が入る。

 

 足から頭まで、順番どおり私たちは骨を拾わせてもらい、故人は無事に骨箱におさまった。

 ガッガッガッガッと砕かれている最中、生前あんなにうるさかった人が「こらなにすんねん」とも何も言わない。

 本当にもういなくなってしまったんだな、と思った。

 

 

 

お返事を書きました

 

 3日ほど前にはてな経由で呟いた上記の文章についてidコールを頂いたので、それについて少し書いてみたいと思いましたが、二つほどお断りしておきたいことがあります。

 ひとつは多分まとまりのない文章になるであろうこと、二つ目としては、私は桜島さんとは面識はなく、たまに書かれたものを拝見するだけで人となりを深く知る由もないことです。こうして長く引っ張って言及するのも実はちょっと気が引けています。

 

 そこには、桜島さんのある文章を読んでほしいと書かれていました。

ninicosachico.hatenablog.com

 桜島さんの人となりについて悪印象を呟いておられるのでどのへんがソース?と問うた私の呟きに対して解として示されたものですが、それは解とははるかにかけ離れたものでした。「クソ長い」と紹介されたのですが、さほど長いとも思わず読了したのみならず、内容に得心してしまったのです(※)。

 

 内容は大きくくくると「(自分が考える)インターネットでの人とのかかわり方」でしたが、同時にそれはリアルの人間関係にも応用できそうな「自分と他者との間のラインの引き方」でもあります。

 

 どこまでが自分の庭か、どこからが人の庭か。公道にあたる部分はどこか。

 このラインの判断を狂わせる要素はおそらくひとつではなくいくつかあると思われますが、ここ数年ネットを眺めていて私が時々感じるのは、なんら義務でもないものに強制力を感じると主張する人たちが増えてきたことです。

 これは全くの私感なのでぴんと来ないと言われても仕方がない部分ですが、例えば何かに対する感想や心情の吐露に対して、主旨や結論などを「強いられた」と感じる受け取り手が増えた印象が私にはあるのです。

 他者の心情の吐露にも自分に対する強制力を感じてしまう人にとっては、インターネットは地獄でしょう。他者のふとした私感が「叩き」となって襲い掛かってくるのですから。

 「庭で叫んでいる」人は、その前に「自分の庭で叫ばれたと感じている」可能性があります(いや、実はそうではない可能性が高いのですが)。

 

 少し脱線したようなので話をもどしますと、たとえば今回話題になったの桜島さんのTVへの感想エントリにしても、読み手は頷くことや同意することを求められているわけではないのです。

 実際そのあと、お笑い芸人の世界に詳しい方が直後に反論を張ってらしたけど、そうやって異議を申し立てることもまた自由です。その異議に対してまた「感想」を呟くこともまた自由。

 大事なのは表明する自由があると同時に黙る自由もあるということです。

 なんどきであれ相手に応じなければいけない、応じない人は卑怯、という硬直した定義は誰をも幸せにしないのでは?と私は考えています。

 

 

 

※ 本筋と外れる箇所で少し感心したのは、自分の主張に拍手してくれる人と反論してくる人を、公平性を持たせるため同じ扱いにおさえるところですね。あと本文中に「私が悲しくなろうが辛くなろうが「人として無視してならない」と思う情報は見ます」とあり、人道的に問題のない範疇で自分の裁量による主体的な取捨選択をされているということなので、それでいいのでは、と私は思います。