一昨年の冬の初め、それまで数年にわたって綴っていたblogを閉じた。
特に何か専門的なテーマに特化したものでもなく、不定期に身辺雑記を書き連ねていただけのもので、他の人には特に需要があるとも思えなかったし、そんな余力があるならもう少し現実の生活を充実させることに注力したほうがいいのではと思ったのだ。
同時に、twitterの方もあまりログインしなくなった。
TLを覗くと、公共的な意義のあるものから個人的なものまで、絶えずいさかいがある。こういうのを見続けることに少し疲れたなあ。そう思った。思うと同時に、ちょっと倦んだだけでネットから距離を置くことができる己が立場の気楽さも感じた。
そして、ニュース記事だけを見るためにもう一つ別のアカウントを作った。
もしリアルで付き合いのある人に紹介する機会があるなら、こっちの寡黙なアカを出せばいいか、などと思いながら(・・・結局ほとんど使わなくなってしまったけれど)。
1年3か月、blogを手放しtwitterから遠ざかって私の生活は何が変わったか。
結論としては何も変わらなかった。強いてあげるとすれば、あんなに苦手がっていたFacebookに登録して知り合いが数人見つかり、交流を始めたことくらいだ。
ただ、舫綱が外れたような妙な解放感と不安定感は始終ついて回った。
仕事が休みに入って、遅い昼の食事をとりながらTVを流し見ていたら、役所広司が自身のblogで、自分がナレーションを務めたドキュメンタリー映画に苦言を呈しているトピックスを取り上げていた。
驚いたのはblogの更新回数が年に一度あるかないかだということだ。
言いたいことがあるときだけ更新なんですね、とコメンテーターが言う。
それでいいのか。それでいいのだ。
じゃあ私も気楽にまた日記を書こうかな、とその時思えたのだった。