わが家の歴史

 

 韓国で船舶事故に遭った修学旅行生のご家族が、それぞれに座り込んで鉛色の海を眺めている。流れてくるニュースでその姿を見ているのが忍びなくなり、ここ数日は報道自体を避けたくて、TVもラジオも消して外に出ていた。

 

 水難事故に敏感に反応するのには理由がある。

 物心付いた時から何度も聞かされてきた母方の祖母の昔話に、祖母自身が遭遇した水難事故の話が幾度も入っていたからだ。

 

 祖母の話を要約するとこうだ。

 当時彼女はまだ十代にして一家の大黒柱だった。商家の跡継ぎで放蕩者の父は母の籍も入れずに一家を見捨てた。彼女の母は武家出身で、明治維新後零落した後もかつての奉公人(中間さん)の働きに頼り養ってもらうのを当たり前としていたため働くすべを知らなかった。時々申し訳なさそうに訪れる父方の祖父が持ってくる金が生活の頼りだった。

 満足に食うのも困る幼少期を過ごした彼女は、当時住んでいた姫島(西淀川区)から神崎川を渡った場所にある大きな紡績工場の女工として働き、工場トップの成績を上げて一家を養っていた(※1)。ところがある日工場に出勤する途中、妹と一緒に乗った渡し船が転覆して、泳ぎが達者だった自分を含めた少数の人だけが生き残り、妹を含めた多くの人は亡くなってしまった。

 

 転覆する直前、乗り合わせた人々がいつもと顔が違う船頭に、航路が違うんじゃないかと不審に思って物言いをつける様子、それを取り合わず「大丈夫大丈夫」と速い流れに乗り出してのまれてゆく様子や、溺れた人々が掴み合って自滅してゆく様子を、何故だかはわからないが祖母は繰り返し繰り返しまだ小さな子供だった私に聞かせた(おかげで船に乗ると私はいつも救命ボートや胴衣の位置を確かめないと落ち着いて乗っていられない)。

 

 事故があった渡しの場所の近くに慰霊碑が立っているはずと聞き、母は車で近くを探したことがあったそうだが、渡しの場所も慰霊碑の場所もわからないままで、諦めていたらしい。

 私も気にかかりながらも、検索しても今までそれらしい情報が見当たらず諦めかけていたのだが、先程思い立って調べ直してみたところ、

 http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000114210

 というページがかかった。

 

 「大正2年(1913)11月2日に、今福にあった大阪合同紡績神崎工場の女性労働者18人が、通勤途上左門殿川の渡し船転覆により水死した事件が、『尼崎市史』第13巻所収年表に記録されています(典拠は当時の新聞である「神戸又新(ゆうしん)日報」記事)」とある。

 

 祖母から聞いたままの神崎川で調べていても今まではなかなか埒が明かなかったのだが、神崎川は下流で左門殿川と中島川に分かれるのだった。佃から今福・杭瀬方面へ左門殿川を渡る「宮の渡し」が祖母の言う「神崎川の渡し船」であれば、その他の話はすべて合う。

  

 実家に電話をして、母の叔母さんにあたる祖母の妹の命日は11月2日じゃない?と聞くと、そこまではわからないが船が転覆した事故は寒い時期だったと聞いていると答えが帰ってきた。検索してかかった記事を読み上げてみて、祖母の働いた紡績工場について尋ねると、ほぼ場所的に間違いないのではないかという。

 探していた慰霊碑は佃の墓地にあるらしいと伝えると、半泣きで感謝された。

 私も次の休みに入ったら、せめてもの供養に、神戸中央図書館まで当該の新聞記事を探しに行く予定だ。

 

 母から、私も聞いたことのなかった話を聞いた。

 船が転覆したと聞いて助けに駆け付けたのは近くの賭博場にいた無頼な侠客たちだった。冷たい水から上がって震えている祖母に無言で自分の袢纏を脱いで羽織らせてやり、水死人として水から上がった妹に駆け寄ろうとした祖母を「今は行かない方がいい」と手で制した。着物を整え、残酷な亡くなり方をした気配がある程度消えたあとでようやく「会ってきな」と送り出してくれたのだと言う。

 

 祖母は渡世人とよほど縁があったらしく、生国の四国高松を出て博打渡世をしていた祖父とその後結婚し、私の母が生まれた。

 元々は堅気の家の人だった祖父は、所帯を持ってからは足を洗って一応勤め人になったが、勤め先では顔と口舌を生かして地回りのやくざと話をつけたりする役まわりだったらしい。ちなみに、博打は死ぬまでやめられず、最後の入院先でも賽子を二つ隠し持っていた。

  

 

 

※1 祖母の話の中でよく出てきた地名「のらと」とは「野里」のことなのだろう。