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悪意のゴミ捨て場にならないために

 

 先日、久々に親との間に険悪な空気が流れたのは、私が玄関から荷物を運びに出た際に帽子をかぶろうとしたからだ。

 私は顔の皮膚が弱く、できれば直射日光に当たるのを避けたいのだが、母に言わせると、ちょっと外に出る位のことでは帽子をかぶらずに出るのが普通らしい。

 手短に理由を述べた後は特に言い訳もしなかったが、そんなことをしているから人からいじめられるんだ、などと言うので昔と変わっていないなあ、と思った。

 帽子をかぶる程度のことで害を加えてくるような人とうまくやる気はないよ、と笑って返す。

 

 私の両親は、人との間に揉め事が起きた時にはまず己を振り返るという、クラシックな美徳を備えた人たちだ。いや皮肉ではなく本当にそう思う。

 しかし子供の頃いじめにあった時には、まず「お前の行動に非はなかったか」ばかりを延々と取り沙汰されるので、もう笑ってしまう位頼りにならなかった。

 傘を折られて捨てられた時も、背中に泥の塊をねじ込まれた時も、制帽を雑巾代わりにされて投げられた時も、反省を求められるのは私のほうだ。私自身もそれがすっかり身について、人間関係で何かトラブルがあるたびに己を振り返り内省するようになる。

 

 するとどういうことが起きるか。

 人を痰壺がわりに使いたい人が異常な嗅覚の鋭さで吸い付いてくるのだ。

 例をあげると、社会人になり、勤務帰りに同僚と晩御飯を食べたあと乗った電車の中で、目の前に座ったぱっと見にはどこの会社重役かと思える身なりの男性から、いきなり「この売女!」「屑め!」と罵声を浴びせられたことがあった(注:よくある地味目なOLの服装でした)。

 こんなことを書くと「え?嘘だろ?」と思う向きもあるだろうけど本当。同じ車両の人たちはちらっと横目でチェックしながら知らないふりをしてる。なんで私?と思いながら、身がすくんで車掌を呼ぶ余裕もなかった若い頃の私だった。ああ情けない。

 

 何度もよく似たことが積み重なる中である時考えた。

 トラブルは向こうの(勝手な)都合もあってのことだろうに、こちらばかり反省しているというのも割が合わないしおかしいよな、と。

 なので自分で考えて線を引くことにした。

 一通りの常識に照らして自分に非がない場合、それ以上の理由を自分の中に探るのはきっぱりとやめる。これがなかなか身につかず大変だった。自分がひどく野放図で身勝手な人間のように思われてひとり罪悪感を感じるのだ。

 

 認識を変えるのに大変骨が折れたが、年月を経て、お騒がせしました位の譲歩はしても、自分に非のないことには頭を下げず堂々としていられる程度にはふてぶてしくなった。

 同時に、すれ違いざまに知らない人に訳もなく怒鳴られたり、唾を吐かれたりすることも滅多になくなったから、確実に「効いた」のだろう。

 あと身勝手なお願いをしてくる人も、波風を立てず断れるようになった(※)。それが一番嬉しい副効用かもしれない。

 

 

 

※具体的には「逆切れ」されなくなった。