家族がもうすぐ引っ越す。準備やなんやかんやで落ち着かない3月が過ぎてゆく。
ingressの話はこれで最後。余談中の余談になるし、おそらく今後もう書くことはない。
今年中に新ゲームとして登場すると予告されたものが、単なるアップデートなのかまるで別物になるのか今の時点ではわからないが、余程の改変がない限り戻ることもないだろうし、再びアプリを入れてもソロで気ままに遊ぶにとどまるだろう。
いくつかある隣接市のうち、AG同士が敵味方関係なく仲の良い(人たちが多い)地区がある。スポーツのように、勝負が終わったらノーサイドという考え方のようだ。非常にすっきりして合理的だが、多くの場合こう気持ちよくはいかない。
このゲームのプレイヤーには二通りあって、スポーツ選手のようにその時その時のゲーム運びのベストを追い求めるタイプと、全日と新日の因縁試合!みたいなゲーム自体とは違うファクターでモチベーションを保持する人がいる。この二者は同じゲームをしていてもどこか別のものを見ているように私には感じられる。
違うファクターとは具体的にはどういうものかというと、リアル遭遇した時の態度が気に入らなかったなどの個人的な恨みつらみから敵陣営は中央集権的だ軍隊的だといった体制批判的なものまで様々。
人は大義名分があると燃える。
なければ発見するまでだ。
で、困ったことに、私の中にも少なからずそういう部分がある。それに気が付いてから、私はかなり自重するようになった。
仲間うちで槍玉にあがるAGの自宅ポータルを攻撃すれば多分賞賛は飛んでくるし、1レゾを詰めて反転すれば痛快がられるだろうというのは分かっていた。自分でも「してやったり」と胸がすくことだろう。
でも、「もっとヘイトを!」という言葉や行動様式に、私は徐々に胸やけを感じるようになっていた。
ingressと同じナイアンティックが作ったポケモンGOというゲームが凄いと思うのは、プレイする人間に徹底してヘイトが向かわない作りになっていることだ。
たとえば自分がジムに置いたポケモンは負ければいつの間にか手元に戻ってくる。攻撃されている通知もこないし、誰が追い落としたかもわからない。そもそもログが残っていないのだ。
二項対立を避けるためにチームを三つに分けたのも深慮を感じる。
縄張り意識や承認欲求とリンクしなくなった分、ゲームそのものは淡白な味わいになったが、これは「社会実験」としてingressというゲームを主催することでナイアンティックが得た果実だと私には思える。