さっきここのアクセス解析を見たら、今まで見たことのないような数字が躍ってまして。何が起きてるんだか。
ともあれこんなはてなの辺境まで見に来て下さった皆様ありがとうございます。
workingmanisdead.hatenablog.com
前回の繰り返しになるとは思ったんですが「ルール」という語彙が出てきたので、それについて思うところをつらつらと書いてみます。
まず目に入った言葉から。
>もちろんわたしの抗議だって暴力なのは分かってます
とありますが、これはざっくり言って違います。公表された意見に対して感想を書くのは何ら問題ではない。私にもあなたにも意見があり感想がある。それは当たり前のことです。
それが問題になるのなら何のためのインターネットの自由なのか。ただ書き手の人となりを誹謗したらそれは別ものです。
Aさんの描いたこの意見はとんでもなく酷い、と書くのと、こんな意見を書いたAはとんでもなく酷い奴だ、とでは天と地との差があります。暴力ではない、と今言ったのは前者で、後者はしっかり「暴力」です。
人となりに関する情報なんて議論に要らない。感情的にこじれて、非建設的な泥仕合になるのも大体がこれです。ネットだけじゃなく、リアルでもそうですよね。
とはいえ私も上記にあげた「暴力」すれすれの表現をしてしまったことはあります。
某大手局に在籍したこともある有名なアナウンサーが、人工透析患者に対して非常にデリカシーのない中傷と暴論を繰り広げた時です。
あの頭に血が上る感覚は今も忘れません。いろんな人が冷静に助言をしても、一方的に持論をまくしたてるだけで会話がまったく成り立たない様子を見て、私はつい「この人おかしいんじゃないか」という意味のことを書いてしまった。これに対しては今も「やっちゃいけないところを踏み越えてしまった」悔いが残っています。
たとえ相手が知名度を糧に商売をしていて炎上上等だったとしても、それを言い訳にはできません。
さて冒頭に書いた「ルール」の話に戻ります。
ルールにはそれぞれ違った規模があります。マイルールからローカルルール、コモンセンスや法律に至るまで、規模も効力も千差万別なそれらを人は大まかに括ってルールと呼びます。
ただ成立に至るまでの経緯はまったく違います。
マイルールは「私はこうする」一人で決めるものです。一人ですから決め放題です。ルール決め放題。何だかヨーデル食べ放題みたいですね(知らんか)。もちろん効力が及ぶのは自分一人です。
ローカルルールはお身内や仲間内、同じ商売など利益を分かち合う集団内などで成立するものです。
マイルール以外は自分以外の他者が関わってきます。法律となるとどれだけ沢山の人が関わってくることでしょう。法律は膨大な人の知恵や知識の結集です。その慎重な結集であっても、多くの人々の同意がなければ発効できません。
いわゆる成文法のことを書きましたが、人を縛るにはそれくらい慎重でなければいけないのです。また、その慎重さと綿密な過程があってこそ、いざと言う時に効力を発揮してくれるのです。
大げさな話を始めたなあと思っているかも知れません。
以上の文が
>そんなこと関係ない、自由に振舞うぜ、って他者を蹂躙したら、最悪殺人なんかして酷いことになりますよ。
>まあそうですね、殺人上等みたいな社会が来そうな気もしますけど。
への私なりの「違うぜ」という見解です。ルールにも規模がありパワーも違うという話です。
>彼女は自分が何を書こうと肯定意見を見て楽しみたいだけと言うスタンスで、抗議は受け付けないんです。
>これ、自分と他者との関わり方を全く考えてなくない
(略)
>なんらかの合意、落とし所が見つかるまで言葉のやりとりをするのは不毛だと言う理不尽な理由で。
>これリアルでやったら、いやインターネット上でもですけど、人権侵害ですよね。
前回のエントリから一貫してあなたは、異論に関しては落としどころが見つかるまで反論に付き合うべきと書いておられます。
>明文化されていなくても、ルールはあるんです
とあるとおり不文法のようですが、これはあなたのマイルールにすぎません。
自分が建てた異論をスルーされるのは胸糞悪いかも知れませんが、人権侵害ではありません。
あなたは自分の行動言動に関してはこの作法を守っておられるのでしょう。それは美しいことです。
また、あなたのお仲間のかたも同じ行動様式を持っておられるのかも知れません。ならば、非常にいいお友達であると私は言いましょう。
ただ、あなたが私や桜島さんに対して「同じ行動をとれ」と命ずることはできません。ルールはあります。ただあなたのマイルールです。他者をそれに従わせることはできません。
感想を言うことや批判を行うことは盛大に行ったらいいのです。
少々話がそれますが
>主張までいかなくてもなにかを書くと言うことはそれにはそぐわないなにかを否定することでもあります。
>たとえ好きな事を純粋に好きだと書くとしても、好きと言われなかったものたちは否定あるいは無視されています。
>それは、わたしの主張や好きだと言うたわいもない言及に不自由を強いられています。
と大変苦慮しておられるようですが、それは何の遠慮もいらないのではないでしょうか・・・変なたとえですが、栗原はるみさんちのおすそ分けカスタードプリンが好きだとブログに書くときに、森永の焼きプリン税抜68円の立場を慮る必要はないように思います(必要以上に腐さないことを前提として)。
批判や感想はいいけれど、他者に対して自分の作法(あなたのマイルール)にのっとって動きなさい物を言いなさい、というのは越権行為ですし、実現の可能性もありません。
なぜって、他人だから。自分と違う人だから。
逆に、仮定の話ですが桜島さんがあなたに「自分と同じスタンスをとれ、できないお前は酷い奴だ」と言って来たとしたら、やはり私は「それは違うんじゃないですか?」とここで感想を述べると思います(万が一にもないと思うけど)。
>なにもかもが同時に自由なら、女性の権利向上も自由であると同時に、家父長制みたいな、女は家に入れという考えも自由でなくてはなりません。
ほんっとにありきたりな意見ですが、表明するのは自由なのです。「それは違うと思うぜ」と言うのもまた自由です。
ただ、馬を水飲み場につれてゆくことはできても、水を飲ませることはできない、という言葉があります。
命ずることで人の内心を支配することはできません。
私を好きになれと言われて、好きになる人がいないように、たとえ論破しても相手が心の中で持論を曲げるとは限りません。人ひとりと言っても歴史があり背景があるからです。
こういう局面に関しては私はとても悲観的ですが、ただの一個人がブログやネットで言いたい放題しているところから、「女は家に入れ」という意見が実社会で実権を握って人を縛る効力をもつ地点までは距離があります。「違う」と言い続ける意味はそこにあります。手にしている「自由」の使いどころです。
とはいっても私たちは非力で、できるのは、庭の生垣の外に看板やポスターを並べて「お?」と思ってもらうことくらいです。その看板たちが、感情にまかせて庭に投げ込む石のつぶてや、扉をこじ開けるバールのようなものに化けないよう自制しながら。もどかしく迂遠なこの道を私は行こうと思います。